断絶の系統

Non Plus Ultra

不幸の再分配

 社会政策上「再分配」と言えば大抵は「富の再分配」のことを指します。富を持っているのは社会の(現代であれば資本主義の)「勝者」の側ですので、富の再分配は「上から」の再分配と言えます。しかし今回は「下から」の再分配構造―ここでは「不幸の再分配」と呼びます―について書いていきたいと思います。

 

「不幸の再分配」とは、何らかの欲求が満たされない個人や集団が、不満を解消するために反社会的な手段をとり、それによって社会が悪影響を受けることです(「不幸の再分配」自体Googleではヒットしなかったのでこれは私なりの定義です)。富というと金銭的・物質的なもののイメージがありますが、人間の求めるものはそれらだけではありません。人間的なつながり、社会的な居場所などもあるでしょう。それらの「豊かさ」が満足に与えられなかった、さらには分配のされ方が不公平だと感じた場合、合法的にまた社会的に望ましい方法で解決が図られれば何の問題もないのですが、非合法な手段を取ったり攻撃性を帯びたりすることもあります。後者の場合、ベクトルが外に向いてしまうと犯罪となり、内側に向くと精神的な病や自殺につながります。

 

 なぜこれが「再分配」構造かというと、ある個人の「不幸」は多くの人が快適に暮らすために社会から押し付けられた面も大きいと考えるからです。例えば、働くのが苦手だが盗みは得意という人は盗みの禁じられた社会ではあまり良い収入は得られないかもしれませんし、暴力より頭脳に優れているほうが社会的地位は得られやすいでしょう。また、誰と交流するか、誰と家庭を築くかが個人の自由とされているなら、他人に好かれないような容姿や性格、挙動の人は、人間的つながりを満足には築けないと思われます。あるいは、抱えている欲求が社会的に容認されている人とそうでない人では同じ社会にいる限り満足の度合いは異なるものとなります。

 

 盗みを禁じる、暴力より頭脳重視、誰と交流するか選択する自由を認める、ある種の欲求を望ましくないものとする、というのが悪いわけではありません。それらは社会を維持し、よりよい生活を送るためになされている事柄です。しかし多様な人間がいる以上、社会構造によって個人の利益や負担といったものに差が出てしまいます。社会に適応することは可能でそれが望ましいかもしれませんが、それ自体が不公平な負担ですし全員がうまく適応できるわけでもありません。社会維持のための負担を不公平に背負わされた人たちが、反社会的な行動に出てしまうのが「不幸の再分配」です。

 

 

 どのような社会でも「不幸の再分配」は完全にはなくならないでしょうが、できるだけ減らすためにはどのような方法があるでしょうか。一つは先述の「富の再分配」のように、豊かさの差をある程度減らすことで、不満を和らげることです。これは経済的な面だけでなく、人間関係や社会的な居場所の問題にも関係します。しかしこれは大抵既に持っている側の権益を制限することにもなりますので、社会の安定のためとはいえ反発を伴います。富んでいる人からすれば「自分の努力の結果を横取り」されて「不公平」に感じるでしょうし、あるいは今まで排除してきた好ましくない人間との関係を強制される側からすれば心象はよくないと思われます。

 

 二つ目は反社会的行為に対する抑止力です。良心や道徳といったものも含まれるでしょうが、より強力なのは刑罰とそれに伴う経済的社会的制裁です。刑罰にも罰金や身体的拘束、究極的には死刑など幾つかの形があり、また犯罪者は刑罰に伴って社会的地位・信用、人間関係、得られたはずの経済的利益などを失う可能性があります。このような制裁による不利益を犯罪によって得られる利益よりも大きくすることにより、犯罪行為に対する抑止力としています。しかし、これらの不利益を覚悟してしまった人にこの抑止力は働くでしょうか?

 

 

 ここで「不幸の再分配」を「不完全不幸再分配」と「完全不幸再分配」に分けたいと思います。これは行為者が犯罪によって得るものと犯罪に対する制裁で被る不利益、どちらが大きいかによって分けられます。その判断はあくまで行為者の主観によります。前者では犯罪者自身も損をすることになり抑止力が働いている状態ですが、後者では行為者は被る不利益を差し引いても犯罪をする意味があることになり、抑止力は十分に働いていません。もちろん「完全不幸再分配」のほうが問題で、現在日本では死刑が最高刑ですがそれさえも覚悟してしまえばある意味「無敵」になってしまいます。

 

 最近この「完全不幸再分配」が生じやすくなっているのではという懸念があります。失うものがないと「完全不幸再分配」を起こすハードルは下がります。経済的な面では、景気の動向や労働形態の変化等で安定した職を得られない人は増えています。またこれとも関係しますが、未婚率の上昇により家庭を持たない人も増えており、地域あるいは職場の共同体といったものも解体傾向にあります。老後の安定した生活さらには今後の人生そのものにも期待できなくなっている人は多いかもしれません。このような中で個人が孤立し、失うものや犯罪をするのを引き留めるものがない(あるいは少ない)状態に置かれることは増えると思われます。そしてそのような人が「社会」に攻撃対象を定めれば、無差別殺人にもつながります。そのような事件は既に何例も起こっていますが、様々な手段がありいつどこで巻き込まれるかわかりません。

 

 

 では、どうすれば「完全不幸再分配」を防ぐことができるでしょうか。一つ目は「完全不幸再分配」を起こしかねない、事後処罰による抑止力が効かない人の徹底した排除・隔離です。犯罪行為すらできないようにしてしまえば当然事件は起こりません。しかし、犯罪というのはあくまで行為ですので、社会に不満をためたり反社会的欲求を持ったりといったことだけでそのような人を処分するのは内心の自由を認める限り難しいでしょう。

 

二つ目は既に述べたように豊かさの差を減らし不満を和らげることです。ただ、社会がそのような人に豊かさを分け与えることを好ましく思うかは、現在の生活保護に対する目線などを見る限り、あまり期待できません。自己責任で片づけられかねませんし、世間の同情が得られないような人だからそのような状況に陥っているのだとも言えます。「完全不幸再分配」を起こしかねない人を社会に包摂するための社会構造(他の人の自由の制限にもなる)や同胞意識の形成が難しいところだと思われます。

 

「責任」というものを個人が引き受けることで社会が回っている面もあるので苦境に陥ったのもそこから脱出できないのも自己責任というのは社会的にある程度そう処理せざるをえないとは思います。しかし突き詰めていくと生まれや育ちや時代の変化など自分ではどうしようもないものが必ず関係してくるため、「自己責任」とは言えなくなってしまいます。何でも自己責任と言って不幸を「押し付けられた」人間から目を背ける社会は、そのうち「危険性を放置したのも自己責任」と後ろから襲われても文句は言えないかもしれません。