断絶の系統

Non Plus Ultra

スコティッシュフォールドと反出生主義

 先日ある有名なYouTuberが子猫を飼い始めて炎上しました。猫を飼うだけで炎上なんて……と思っていたら、彼が選んだ品種も炎上の一因だったようです。

 

 その品種はスコティッシュフォールド。品種の確立は20世紀末と比較的新しい品種ですが、「折れ耳」が可愛らしいと人気を博しています。しかし、この品種の最大の特徴である「折れ耳」、実は遺伝性の軟骨の異常によるものです。そしてこの軟骨の異常は耳だけでなく四肢などにも現れ、スコティッシュフォールドは活動を制限されたり痛みから不活発になったりすることが多いと言われています。

 

 そのため、一部の人たちはスコティッシュフォールドの品種としての健全性を批判してきました。「人間が求める可愛らしさのために、猫に苦痛を強いている」からです。英国ではこの品種の登録をとりやめた血統管理団体もあります。同様の批判や啓発が、先述の炎上のときにも見られました。

 

 

 この主張は一般化できるでしょうか?一般化すると、「遺伝的特性により子孫に苦痛を強いる可能性が高い生物は、子孫を残すべきではない」ということになります。スコティッシュフォールドの問題を懸念している人たちは、この主張を人間に当てはめた場合は猫と同様に同意するでしょうか?

 

 このような主張は「反出生主義」とよばれる思想に通じるものがあります。スコティッシュフォールドが子孫を残すべきでない(実際は繁殖させているのは人間ですが)とされる根拠は、スコッティッシュフォールドとして生まれる猫自身の遺伝ゆえの苦痛にあります。「反出生主義」は、個体差はあれ生は苦痛を伴うもので、しかも生まれる前に同意が得られることはないため、生まれないほうがよい、種の存続より苦痛の回避の方が重要であるとする思想です。この思想は基本的には人間が主な対象ですが、スコッティッシュフォールドの場合でも同様の構造が成立しています。

 

 

 人間の場合はどうでしょうか。「ある人間はその遺伝的特性により子孫に苦痛を強いる可能性が高いので、子孫を残すべきではない。」……なんとなく優生学を連想してしまいます。

 

 しかし、これは優生学ではありません。優生学とは、人類の発展を目標に遺伝的改良を行おうとするものです。子孫を残すことの是非はその個体が人類の発展に資するかどうかで判断されます。本人が幸福な人生を送れるか、またはどれほど苦痛を感じるかは基本的に考慮されません。先述の考えは猫の場合と同様に反出生主義的と言えるでしょう。

 

 そして反出生主義では「遺伝的特性」が軟骨の異常のような遺伝性の疾患にとどまらず、「苦痛を感じること」そのものにまでなっています。生物は苦を感じて避けたり解消につながる行動をしたりすることで生きています。つまり生まれれば苦痛を避けることは(少なくとも現状では)できません。また人間は知能が発達したために自らの苦痛についてもより深く考えてしまいます(スコッティッシュフォールドは自分の痛みを他の品種の猫と比べたり、この品種の宿命を理解して嘆いたりするでしょうか?)。先ほどのものに当てはめると「ある人間は苦痛を感じるという遺伝的特性を持ち、それにより子孫にも苦痛を強いることになるので、子孫を残すべきではない」となります。そしてこれは「ある人間」どころか「全ての人間」の問題になります。

 

 

 どうでしょうか。猫の場合にはかわいそうと思って同意していた皆さんも、自分たちのことになってしまうと態度が変わるかもしれません。猫と人間は違う?確かにそうです。スコティッシュフォールドは人間が最近になって作り出したものにすぎず、猫の一品種と人間を同様に論じることは乱暴にも思えます。では人間が反出生主義で滅びないように反論を考えてみましょう。

 

 まず、人生は苦痛だけではないという点です。確かに人生には苦痛だけではなく快楽や幸福もあります。生まれなければ苦痛を経験せずに済みますが、同時に幸福も味わうことができません。苦痛だけを考えて生まれないほうがよいとするのは、少々短絡的に聞こえます。

 

 ……しかし、苦痛と幸福、釣り合っていますか?というか釣り合ってようやくプラマイゼロなわけですが。労働しなければ生活できないのはどう思いますか?労働に見合った報酬をもらえていると思いますか?人間関係や社会全体はどうですか?病気や災害、戦争、事故、犯罪、老化、さらには死もありますが、それを補うだけのプラスがありますか?あると答えられるならそれはよいことですが、そうではない人についてはどう思いますか?某YouTuberの猫より幸福度高い生活送っていますか?この世界に生み出された子供が本当に幸せになれると思いますか?

 

 次に、反出生主義に従えば人間はいずれいなくなってしまうわけですが(反出生主義は人類の破滅的な絶滅を望んでいるわけではありません)、この点についてはどうでしょうか?人類の歴史は数百万年、さらに生命の歴史は数十億年あり、その系譜の先に私たちはいます。もっと身近なところで言えば、父母、祖父母、曾祖父母とさかのぼることができます。「生まれないほうがよい」なんて言ったら数々の困難を乗り越えてきたであろう生命の営みを断ち切ることになります。それはいけないと思う気持ちがあるのもおかしくないでしょう(そうでなかったらもう絶滅しています)。

 

 それでは、なぜ終わりにしてはいけないのでしょうか?人類を存続させる目的は何ですか?それを設定したのは誰ですか、その達成で誰にどのような利益がありますか?人類の存続は個人の苦痛の回避よりも優先すべきことである根拠があるとすれば、何ですか?「続けてきたこと」自体は何かに価値を与えますか?社会や文化、国家を引き継ぐ義務と言っても、それらが人間のためにあるのであって、人間がそれらのためにあるのではないのではないでしょうか?*1

 

 

 うーん、どうでしょう。反出生主義で人類が滅ぶなんてことは想像しにくいですが、反出生主義を論駁することもまた難しいようです。私は反出生主義が否定されればそれに越したことはないと思うのですが、なかなか否定することはできません。個人の自由や平等、人権などを突き詰めて考えた先には反出生主義が待っているような気すらします。

 

 というわけで、スコティッシュフォールドの話から「人類の(倫理的な)危機」になってしまいました。近現代の思想で出生をちゃんと肯定したものってあるんですかね。あったらすでに反出生主義なんてなくなってそうですが、詳しくないのでわかりません。教えて詳しい人。

*1:この点については過去の記事で検討しています

人類はいなくなってもよいのか - 断絶の系統