断絶の系統

Non Plus Ultra

人類はいなくなってもよいのか

 人類の平和的断絶の方策を考える前に、そもそも人類が地球上からいなくなっても大丈夫なのかについて考えてみました。人類に存続の義務はあるのか、あるとすればどこに根拠があるのか、ということについてです。

 

 まず、人類自身にその存続の根拠があるかという点です。言い換えるなら「人類のために人類は存続しなければならない」という命題になります。

 

 

 現在、私たちが暮らしている社会を維持しているのは人間です。そのため長期的な社会の維持のためには人口の再生産が必要で、これが少子化が問題になっている理由でもあります。つまり今ある社会の維持・発展のために人類の種としての存続が必要であるという考え方です。

 

 しかし、この場合私たちが必要としているのは社会の維持であって、それが満たされれば人類の再生産は必要ではないように思われます。人口再生産と社会の維持が分離できるかはまた別の問題ですが、もし実現すればそれは労働に頼らない社会ですので、人類の存続にかかわらず私たちにとってよいものだと思います。現状では社会の維持のために人口の再生産が必要という考えは妥当なものですが、そのような社会システムを続けなければならない理由はないですし、人間の労働に頼らない社会システムが実現すればその考えの根拠は失われます。

 

 また、私たちは先祖が今までつないできた人類の系譜の上にいるのであり、未来にそれをつなぐ義務がある、という考え方もあります。しかし、今までやってきたのだからというだけではそれをし続ける義務の根拠にはなりません。この場合はむしろ「今までやってきたのだから続けるべきだ」という考え自体によって系譜がつなげられてきたと考えられます。そのような考えは系統の存続に適していたのでしょう。もちろん一見そうは見えなくても合理的であるために残ってきたものは多くありますが、今までやってきたこと全てを続ける必要はありません。新たな世代を生み出すことがその生み出された本人にとってよいことなのか、またもしそうでないとすればそれでも人類の系譜をつないでいくべきなのか、ということにこの考え方は答えていません。

 

 

 次に、人類以外に人類存続の義務の根拠を求められるかについてです。

 

 先に、「創造者」は存在せず宇宙の誕生から現在に至るまでの全てが偶発的に生じたと仮定してみます。現在主流の科学は宇宙の形成や生物の進化などにおいて「意思」の関与を想定していないのでこの考え方に当てはまるでしょう。この場合、人類が存続するかどうかの決定権は人類自身にあると考えるのが妥当だと思われます。人類が存続の道を選ぼうが絶滅しようがその世界全体にとっての良い悪いはなく、人類の勝手ということになります。

 

 一方、宇宙の誕生、あるいは生物や人間の誕生に何らかの意思を持った存在が関与していた場合はどうなるでしょうか。ここではその存在を「神」と呼ぶことにします。もしその「神」が現在は既に存在しない、あるいはこの世界や人間に関与する意思や能力を持たないとすれば、その場合は既に述べた「神」がいない場合と同じで、人類の存続の決定権は人類自身にあると考えられます。たとえ「神」が存続を命じていたとしても、その「神」がいなくなれば、人類が存続すべき根拠をその過去の命令自体に求めることは困難だと思われます。

 

 そしてまだ「神」が存在し、世界や人類に関与する意思や能力がある場合ですが、その「神」が現状についてどう思っているかで分けて考えてみます。「神」が現状、すなわち人類が苦しみの伴う生活を送っている状態を肯定している、あるいは苦しんでいると認識すらしていないとすれば、それは人類にとってよいことではありません。人類が苦しんででも存続してくれないと「神」が困る理由とは何でしょうか。人類が存続すべき根拠どころか、反出生主義が人類にとっては「正しい」ことになってしまいます。ただ、この場合人類が自らの運命を嘆いて絶滅しようとしても「神」がそれを許すかはわかりません。

 

 反対に「神」が現状を改善したいと思っている場合ですが、現時点でまだ改善はなされていないわけですので、そもそもこの仮定が成り立つのかが疑問です。死後あるいは世界の終焉後にその人の行いに応じて報いが与えられるというストーリーも宗教には見られますが、それは既に生まれた人が善行をする根拠にはなっても、新たに人を世界に送り出すべき根拠にはなりません。つまり「神」が存在する場合、現状は人間社会ならば作製者あるいは管理者の倫理や責任が問われかねない事態になっているのではないでしょうか。「神」なので全く別の論理で動いている可能性は高いですが、そのような「神」の意思を果たして人類存続の義務の根拠としてよいのでしょうか。

 

 ここまで幾つかの場合を考えてきましたが、私が納得できる人類が存続しなければならない根拠は見つかりませんでした。現在の社会システムの維持に人口の再生産が必要なのは同意しますが、そのような社会システムを続けるべき根拠はわかりません。「神」がいないなら人類が存続するかは人類次第ですし、「神」がいる場合もそれにより人類に存続の義務が生じるというのは人類にとってあまりよくない状況に見えます。どのような場合にせよ、同意なく与えられた人生に苦しみが必ず伴うゆえに生まれること自体が生まれた本人にとって「よくない」とした場合には、反出生主義は人類にとっての「自力救済」と言えるでしょう。

 

 もちろん、上記の論は私が考えただけでおそらく不完全なので、これにより「人類が存続しなければならない義務」がないことが証明されたわけではありません。またここまで述べてきたことは、「人類が存続しなければならない義務はあるのか」という話であり、仮に義務はないと証明されたとしても「人類は存続してはいけない」という結論には至りません。人類が困難の中でも存続していくに足る意味、目的やそれによって得られる益があれば、義務がなくても存続していくのがよいということになるでしょう。

 

 しかし、もし今後「人類には自らの種を存続させなければならない義務がない」こと、あるいはさらに進んで「存続しないほうがよい」ことが証明されても、それで全ての人が納得することはないと思います。たとえその「証明」に有効な反論ができなくても人類が存続することは可能ですし、そうやって残ってきたのが現在の人類の系統です。ある意味「非合理」な種の存続への執念があったからこそ、ここまで生物は、そして人類は生き残ってきたのだと思います。しかし、その非合理さが生き残るために「よい」手段だったとしても生き残ってきたこと自体が「よい」とされるわけではありませんし、ましてや存続の義務がそこに生じるわけでもないでしょう。

 

 ただ、「存続の義務」を失った集団が自らを維持できるのかというのはまた別の問題です。何らかの思想やストーリーに基づいて設定された「存続の義務」が、その構成員に長期的な視点を与えることで社会システムの維持に貢献していた可能性は大いにあると思います。その点はまた別の機会に取り上げます。