断絶の系統

Non Plus Ultra

不労権

「不労権」とは、労働によらず生命・生活を維持する権利のことです*1

 

 皆さんは仕事が好きですか?まだ働いていない皆さんは就職が楽しみですか?好き、楽しみと答えられるならそれはよいことだと思います。しかし、本当は働きたくない、あるいは今の仕事よりもやりたいことがあるという人も多いと思います。

 

 現在の社会では、大人は働いて自分や家族の生活費を稼ぐことが求められています。現在の日本では労働をしなくても制度上生存は可能ですが、その場合は本人の思い通りの生活はできませんし、社会からも厳しい目を向けられるでしょう。つまり生存とまではいかなくとも、人間である以上求める「よりよい生活」を人質に労働を強いられている状況と言えます。社会の発展・分業化で自給自足をする必要はもはやないので、自分のやりたいことをして生活費を得たりさらに豊かになったりすることももちろん可能です。しかし一方で、働きたくなかったり、やりたいことを仕事にできなかったりする人にとっては、彼らも当然死にたくはないですし、よい生活を送りたいわけですから、不本意ながらも働かざるを得ません。そして、社会の維持のために必要な仕事には、多くの人が積極的にやりたいとは思わないようなものも多くあります。

 

 それに加え、社会では労働の成果が「公平に」分配されているかも疑わしいところがあります。労働の負担がそのまま賃金に反映されているわけではありません。能力や環境に恵まれた人にとっては高い報酬を受け取りつつ自己実現もできる一方、低い賃金できつい労働に従事しなければいけない人もいます。生まれたことによって懲役数十年(執行猶予付き)のような状況に陥ることもあるわけです。

 

 しかし、現在の社会はその構成員の労働によって維持されています。つまり、最初に述べた「不労権」をみんなが行使してしまうと、社会が回っていきません。日本国憲法でも「苦役からの解放」が明記される一方で「勤労の権利及び義務」も記されており、働ける人は働いてもらわないと困る、不公平だというのが実状です。そして、資本主義・自由主義社会である以上、労働負担・賃金の格差が発生してしまいます。「不労権」を全員が行使できるようになるには、人間の労働に頼らない社会システムが前提となります。

 

 

 では、現段階で「不労権」は意味のないものなのでしょうか?

 

 私は、今後の社会の方向性を規定するうえで「不労権」の概念は必要だと考えます。すなわち、人間の労働に頼らない社会システムの構築のために、そしてそのような社会の成果を皆が享受するために、人間には「不労権」があることを想定し、現状を「不労権」の侵害と捉えるということです。

 

 近現代の産業の機械化は生産力を飛躍的に向上させました。蒸気機関による工業機械の発展から始まり、現代ではその機械を動かすことまで機械自身が行うようになっています。ロボットや人工知能の進化により、人間の仕事は確実に減っていくはずでした。

 

 しかし現実はどうでしょうか。フルタイムの仕事だと1日8時間が普通ですが、この8時間労働というのが提唱されたのはおよそ200年前と言われています。当時は産業革命期で労働時間がさらに長かったので8時間労働が提唱されたわけですが、それから2世紀経ってもまだ8時間労働(これに通勤も加わります)がひとつの基準であり、さらには時間外労働の上限をめぐって議論がされている有様です。つまり、産業技術の発達によって労働の負担が減り生産性も上がる一方で、人間の労働時間が劇的に短くなったわけではないということです。

 

 これは資本主義経済である以上仕方がないことです。資本主義の目標は不労の実現ではなくより多くの利益であるため、機械化などで人間の仕事が減ってもそれで労働時間が短くなるわけではなく、別の仕事が作り出されます。あるいは労働者は機械との価格競争にもさらされるでしょう。技術の発展を一部の人たちだけでなく多くの労働者に還元するためには、「不労権」の意識が必要です。

 

 一方で20世紀の社会主義共産主義の試みが失敗しているのも事実ですし、技術の発展を資本主義が促進している面もあります。とはいえ20世紀はまだ生産には多くの労働者が携わっており、人々の欲というのは経済にとって大きな要素でした。21世紀は「手」の延長としてだけでなく「頭脳」としての機械がより発展すると思われます。機械化が進み生産が人間の手を離れるにつれ、生産されたものの分配が問題となります。共産主義というのは、労働者がいなくなってからの話なのかもしれません。

 

 

 ここまで「不労権」の話をしてきましたが、「不労権」を認めないとすればどうなるでしょうか。その場合、技術の発展にかかわらず生まれた子供は労働せざるを得ない状況に追い込まれるわけで、労働が楽しいだけのものではない以上、そこには反出生主義が待っています。労働時間が短くても生活できる、さらには働かなくてもよいほうが人類の存続にとって有利でしょうし、「不労権」の実現は反出生主義とは関係なくこれからの人類の目指すべきものだと思います。

*1:「不労権」はGoogle検索でヒットしませんでしたので、私が作った言葉のようです。「働かない権利」のページはWikipediaにありますが、障碍者の権利に関するもののようです。私がここで扱う「不労権」はすべての人間を対象としたものです。「生存権」を拡張したものとも言えるでしょう。